【代表コラム】起業家精神と起業家”的”精神の違い(1)

起業家精神と起業家”的”精神の違い(1)

同じような意味の単語ですが、敢えて違うという観点(目線)で。

日本が再興するための処方箋として、「イノベーションの推進」と「起業数」(新たなビジネスの開始)の増加が必要であると言われています。そのような時代背景のもと、起業家の育成を政府も本腰を入れて推進しています。小学校から起業家教育を始めるということで、一気に起業が社会の真ん中に入ってくる感じです。

私も起業家として、良いこと、悪いことを含め経験をしてきたので、今の流れを応援する意味で、少し警笛を鳴らしたいと思います。

進め方を間違えると、「偏差値教育」や「ゆとり教育」の二の舞になるのではないかと。

「偏差値教育」は、偏差値至上主義、言い換えると、学歴至上主義です。一部の科目を集中的に勉強して、難易度の高い学校に入ること。その結果、安定した(と思われていた)名の通った企業に就職することが最優先。ペーパーテストのみで、早くから人を選別しがちなシステム。

「ゆとり教育」は、詰め込み型の「偏差値教育」の行き過ぎを反省して、学習内容を減らし、落ちこぼれを作らない、競争しない、みんな平等の理念に基づいた教育でした。(正確に言うと、「ゆとり教育」の理念上は少し異なるのですが、本コラムでは結果的にそうであったという観点からこのような記述にしています)その結果、徒競走、みんなで手をつないでゴール。それ、徒”競走”じゃないし。。。のような事態も発生しました。学校教育では、競争をできるだけ排除し、平等、平均を目指す。それは、ある意味、集団の平均を下げ、結果として、全体のレベルを下げるとともに、突き抜ける人材、人と異なった能力を削ぐことにもなりました。「全員が一番」、「誰とも比べない」という評価の仕方も一因かもしれません。

では、「偏差値教育」や「ゆとり教育」の何が問題だったのでしょうか。学歴を重視することが悪いのでしょうか?競争が良くないのでしょうか?平等の精神が問題なのでしょうか?

多様性を認めるということがキーワードになると思います。皆が一つのゴール=価値観に向かって進む、このことが様々な弊害を生んでいたのではないでしょうか?

話を「起業家教育」に戻します。このまま学校で起業家教育を進めると、言葉が一人歩きして、起業する人が”一番エライ”となり。その他の選択をした人は、次善の選択肢を選んだとして、他の人からの見る目も、自分に対する肯定感も下がる。そうなると、起業に向いていない優秀な人まで、起業せざるを得なくなる。そんな風潮に。これって、日本でよく見かける同一化の光景ですよね。

デザインが好きで、その能力が高い人が、周りの流れに追従して経済学部に行って、企業の財務部門に就職する。でも、もしかしたら、その人は、iPhoneのような革新的な製品やサービスをデザインしたかもしれない。

起業ってかなり特殊な仕事(?)の一つだと思うんです。リスクに対するリターンが見合うかは人によるし。最近は、資金調達の範囲も広がり、銀行借入→連帯保証→事業行き詰まり→破産、となるケースは減ってきていると思いますが、失敗したときのセーフィティーネットもまだ十分とは言えないと思います。そう考えるとどの職業も特殊で、プロ野球選手は向いてない人しかなれないし、なりたくても途中で向いてないよと、自身のプレーが教えてくれる。でも、プロ野球選手は、国が皆さんプロ野球選手を目指しましょう、国が小学校から野球教育しますよ、と言っているわけではなく、あくまで、個人の選択なんですよね。

今までの課題は、起業が選択肢に入っていなかったということだと思います。起業に向いている人が、起業を選択していなかったという、日本にとってももったいない課題があった。これが、問題の根っこの一つだと思います。

まずは、起業を必要以上に一律全員に推奨することのよくない点(弊害)を書いてみました。